<新元号> 「令和」の典拠 万葉集 梅花の歌

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<新元号> 「令和」の典拠 万葉集 梅花の歌

新元号「令和」の典拠 万葉集 梅花の歌 中西進さんはこう訳した。NHKニュースを引用しまとめてみました。

新しい元号「令和」の漢字2文字は、万葉集の第5巻の中に歌われている梅の花を歌った32首の序文に使われています。

<典拠「梅花の歌三十二首并せて序(あわせてじょ)」>
「時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(き よく)風和ぎ(かぜ やわらぎ)、梅は鏡前の粉(こ)を披き(ひらき)、蘭は珮後(はいご)の香を薫す(かおらす)」

<中西進さんはこう訳した>
この序文について、「令和」を考案したとみられる中西進さんは、昭和59年の著書「萬葉集 全訳注 原文付」の中で次のように訳しています。

「時あたかも新春の好き月(よきつき)、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉(おしろい)のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている」

<万葉集と序文の詳細>
新しい元号「令和」の典拠となった万葉集は、奈良時代にまとめられた日本最古の和歌集で、全20巻に日本各地のおよそ4500首のうたが収められています。編さんには当時の歌人、大伴家持が加わったとされています。

今回引用された序文は、天平二年正月13日、今の暦でいうと2月8日ごろ、家持の父親で当時、大宰府長官だった大伴旅人の邸宅で開かれた宴会でそこに集まった32人の役人が庭にある梅にまつわるうたを詠んだという状況がつづられています。

昭和天皇の和歌の相談役も務めた歌人の岡野弘彦さんによりますと、序文は正月の気分を表したもので初春のさわやかさを伝えているということです。

岡野さんは、新元号が万葉集から引用されたことについて「万葉集が作られたのは中国の文化をベースにして日本の文化が成熟してくる時期でした。今の日本の文化はそのころからみて長い伝統を築いてきており、日本風の感覚を大切に、長い歴史を持つ日本の古典を引用したことはよいことだと思います」と評価しました。

一方で、岡野さんは「われわれにもなかなか選ばれた意図が伝わりづらいので、より丁寧な説明はしてほしいです」と話していました。

<32首の中には山上憶良も>
大伴旅人が主催した宴会で詠まれた32首の中には、万葉集の代表的な歌人の1人山上憶良の歌も含まれています。

「春されば まづ咲く宿の梅の花 独り見つつや 春日暮さむ」

この歌について、中西さんは著書の中で、待望の春にいち早く咲くわが家の梅の花を1人で見て過ごすことなどできないという意味で、当時、中国から入ってきた来た珍しい木だった梅の花を、仲間とともに楽しみたいという心情をうたったと解説しています。

<梅花の歌32首とは>
「令和」の出典となった万葉集の序文に続く32首の梅花の歌はどんな情景を詠んでいるのか…

万葉集などを研究している法政大学の坂本勝教授に一部を解説してもらいました。

序文に続く1首目「正月立ち 春の来たらば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ」

坂本教授によりますと、「正月になって新春がやってきたら、こんなふうに毎年梅を迎えて喜びのかぎりを尽くしましょう」といった意味だということです。

2首目「梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず 我が家の園に ありこせぬかも」

この歌は「梅の花が今ここで咲いているように、散ってしまうことなく私の家の庭にもそのまま咲き続けてほしい」といった意味だということです。

坂本教授は「万葉集は、近畿地方の人々の歌が中心になっているが、32首が詠まれたのは、九州で万葉集の歌の歴史でも当時では比較的新しい局面を切り開いた地域。ここでは大伴旅人や山上憶良らが歌の世界をリードしていたが、当時、大宰府は外交関係の出先機関で渡来の文化・文明にたっぷり触れながら新しい歌の世界を創っていったので、この32首は万葉集の中でも特徴のある部分だ」と話しています。

中西さん「万葉集の序文に中国の流行」

万葉集に書かれている序文について中西進さんは、著書「萬葉集 全訳注 原文付」の中で、中国の書家として名高い王羲之の書「蘭亭序(らんていのじょ)」の形式と同じだと指摘しています。

そのうえで、背景について「中国では唐の初めに漢詩に序をつけることが流行する。この傾向は万葉集の中にも入り込み、独特な表現様式を持つことになった」としています。

また、梅花の歌が詠まれた時代は「万葉のピーク」だったとして、「唐風にならい、仏教を受容しつつ国家的整備を進めた時代精神が支えた」と説明しています。

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